噴火湾考古学研究会 噴火湾
噴火湾考古学研究会主催
縄文講演会
北海道縄文遺跡を語るシリーズ 1
  噴火湾考古学研究会 シリーズ第13回
       縄文講演会 2005年3月5日(土曜日)18:30〜

『後志のストーンサークル』
ー研究史の中にみる忍路ストーンサークルー
小樽市博物館主任学芸員 石川 直章 氏
         ※ 石川直章氏の資料を載せさせていただきました。            
1. はじめに
2. 北後志の研究前史
3. モースとミルンー考古学の揺藍期から初の論争まで
4. 忍路・手宮洞窟を巡る解釈論一社会を反映する研究一
5. 忍路郡考古学研究会を巡る人々
6. 忍路ストーンサークルと忍路土場遺跡
7. 忍路・古余市湾ストーンサークル群の提唱

1.はじめに             
   後志―海岸線は比較的早く入植が開始⇒明治初期より「郷土史」研究が盛となる。
   特に手宮洞窟と忍路ストーンサークルの存在は、さまざまな人に刺激を与える。

   高度成長期に乗り遅れた地域
   ⇒大規模調査が少なく、石狩などに較べると資料の蓄積が少ない。

2.北後志の研究前史
  ニシン、サケなどの漁場開拓により、江戸中期には拠点的な和人の集落が形成。
  ⇒「雷斧」「陶器」などの出土記載。

  安政3年(1856)にシヤコタンからビクニ越えをした際の記録(松浦武四郎『三航蝦夷日誌』)    
「(前略)・・・シュマチセ(岩屋)、過てクチヤナイ(小沢)マサ泊より此処へ山越有(六町廿間)ニウシナイ(小川)木立有義也。井て(−町四十間)チヤシコチ(城跡)此処より雷斧また陶器類出ると。・・l(後略)」
 
 (野村崇「積丹半島における考古学研究の進展と遺跡の概況」によれば竹田輝雄氏は,
  積丹町草内の神社の山手にあるチヤシを想定)     

  忍路ストーンサークルも文久年間に発見、と伝えられる。
  当初は「アイヌの砦」としていわれた様である.(『prehistoric Japan』)

3.モースとミルンー考古学の揺籃期から初の論争まで

   手宮洞窟の発見一慶応二年(1866年)
   ⇒地元では「名所」となる。
   榎本武揚の訪問・模写以降、揺籃期にあった考古・人類学会に紹介

   モース、ミルンともに1878年(明治11年)に手宮港上陸
   この踏査結果を発表したミルンの『Notes on stoneimplements from Otaru and Hakoda   te,with a few general remarks on the prehistoric remarks of Japan』がこの地域の最古の報告
          
最古の報告
  
  モースの「発掘」した土器のスケッチ
    (原図『Japan day by day』東洋文庫版『日本その日その日』石川欣一訳)
土器スケッチ
4.忍路・手宮洞窟を巡る解釈論一社会を反映する研究一

   1866(明治19)「北海道後志国に存する環状石籬の遺跡」(『人類学会報告』
  で渡瀬荘三郎が最初の報告  
   −「田内捨六」の調査を紹介、「環状石籬(Stone of Circleの訳)」と命名
  「コロボックルの手になるもの」⇒コロボックル論争の端緒
  1908(明治41)『Prehistoric Japan』マンローが写真とともに紹介   
   寺田貞次「ツングース族遺跡説」(1918)、阿部政巳「粛慎人集団墓地説」(1919)
   西田鍬三郎「祭神場説」(1928)など                   
   ⇒いずれも手宮洞窟と同時に論じる
   この時期は、鳥居龍三、中日覚などアジアの諸言語で手宮洞窟の壁画を解読しよう
   とする試み
   忍路ストーンサークルは「大陸からの移住」を前提に議論がされる。
   ⇒日清、日露戦争以降の社会状況を反映した研究(工藤正樹氏の指摘)
   樺太航路の窓口となっていた小樽の地域性も反映

5.忍路郡考古学研究会を巡る人々      

   大正前半までの研究一道内他の地域と同様、札幌人類学会のメンバーや道史編纂
  委員の河野常吉らによる遺跡の紹介                     

   手宮洞窟解釈論を巡り地元でも郷土氏に対する関心が高まる。
   五十嵐鉄、尾形順二などがさきがけ                  
   1939年(昭和4年)、小樽中学校(現 小樽潮陵高校)在学生を中心に「忍路郡考古学   研究会」が結成
   雑誌「究古』(11号から『忍路郡考古学研究会調査研究報告』)を発刊

   新岡武彦が中心、五十嵐鉄や河野広道なども寄稿
   これに影響を受け松下亘・峯山巌が登場    一

   踏査を中心に信頼性の高いレポートを作成。現在の研究の基礎となる作業。

6.忍路ストーンサークルと忍路土場遺跡

   縄文時代後期(約4,000〜3,000年前)の北日本一任居や作業場など、普通の生活
  の場所と区別された墓「墓である」ということをみてわかるようにした基「区画墓」が増加
  忍路ストーンサークルー東西22mの楕円形に、造られた当時は二重に石が配置。
  近代になって一部手を加えられている。

・ストーンサークルの密集地帯                    ・
 忍路ストーンサークル西の尾根一頂上に地鎮山環状列石(道指定史跡)
 小型のストーンサークルー8×10mの楕円形
 1949(昭和24年)年に発掘調査が実施。
 サークルの内側に、たてよこ2m、深さ1mの墓が1基発見

さらに西に行くと余市町との町境尾根上に西崎山ストーンサークル(道指定史跡)
1950く昭和25)年から何回か調査が実施
 石を積み上げたり円形に並べた小型のストーンサークルが多数発見。
 ストーンサークルの下から墓穴も発見。
 縄文時代後期(約4,000年前〜約3,500年前)にかけて造られた。

 余市町の農道空港手前の小高い丘が一八幡山ストーンサークル
 仁木町フルーツパーク内の芝生の下にモンガクB遺捗

 小樽市の西部から余市周辺の地区は、ストーンサークルが集中。

忍路ストーンサークルの前面を走るフルーツ街道周辺一忍路土場遺跡
 土場遺跡−ストーンサークルと一体となった遺跡
 1985年から行われた発掘調査一大量の木製品が出土
 2bの粘土と冷たい地下水のため「天然の冷蔵庫」
 土器や石器のほかさまぎまな特殊なものが出土     ・
 電信柱のような、巨大な柱が出土−その後ストーンサークル周辺で行っている試験的な調査で、そのような大きな柱を設置する穴も発見
 ⇒ストーンサークル周辺には大型の建物が取り囲み、たくさんの人々が生活
 土場遺跡の遺物は小樽市博物館に展示

7.忍路・古余市湾ストーンサークルと群の提唱

   現存する4遺跡(忍路、地鎮山、西崎山、八幡山)と発掘調査で確認された1遺執(モン
  ガクB)のほかに、余市警察裏山遺跡、登町4遺跡(余市)、小樽市なえぼ遺跡、新光遺跡
  張碓遺跡などかつて配石遺構があったことがつたえられる遺跡が点在。

   ストーンサークルの形態はさまざま.密集性と多様性に特徴
   大川遺跡、ホッケ潤遺跡など周辺の縄文後期の遺跡群と有機的な関連を持つ。
   「群」としての遺跡として認識すぺきもの
                             
ストーンサークルという概念を少し広い視野で見られるようになったかと思いました。
遠い小樽からよくおいでいただき有難うございました。